to the north

北海道らしさってなんだろう?

道産子マインドのルーツを探す旅

岡本仁

ビールを飲むなら生ではなく瓶、それも「赤星」といつも言うくせに、その赤星が北海道開拓使のシンボルだということを知ったのは、恥ずかしながらわりと最近のことだ。というか、この連載は自分がいかに北海道の歴史に興味を持たないまま暮らしていたかを告白する話ばかりになっているが、事実だから仕方がない。

鹿児島県いちき串木野市に「薩摩藩英国留学生記念館」という施設がある。薩英戦争(1863)を契機に、西洋の技術を習得しなければ世界の大勢に遅れを取ると考えた薩摩藩は、1865年に鎖国の禁を破り密かに留学生を渡航させた。その出発の地に建てられたこの施設は、留学生たちのその後の功績を後世に伝えるために開館されたものだ。

英国留学生の存在はそれよりも前に、鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」という銅像で知った。留学生の中には、後にイギリスからアメリカへ渡り、カリフォルニアのワイン王と称されるようになった長沢鼎が含まれていて、あるきっかけで長沢に興味を持ったぼくは、彼の経営していたワイナリー跡を探すためにサンタローザへ行ったこともある。

いちき串木野の「薩摩藩英国留学生記念館」でも、まずは長沢鼎に関する資料を中心に観ていたのだが、そのうちに館内に飾られた紺地に赤い星をあしらった旗に目が留まった。近寄ってみると、村橋久成という留学生に関するコーナーだった。解説を読む。村橋は帰国後に北海道開拓使に出仕した。彼は開墾場の開設や屯田兵村の建設などに従事し、麦酒醸造所を造るプロジェクトのリーダーとなる。醸造所ははじめ東京に設け、それが成功したら札幌に建設する予定だったが、村橋の考えによって日本初の日本人が手がける麦酒醸造所は札幌に造られた。この開拓使麦酒醸造所が、現在のサッポロビールの前身となったそうだ。驚いた。ぼくの好きな「赤星」にも薩摩藩士が絡んでいたのだった。

札幌「二番通り酒店」の小林さんのインタビューを無事に終え、明日は東京に戻るという日に、友人からメールが送られてきた。いま『札幌国際芸術祭』が開催されていて、いろいろな面白いイベントがあるようだから、行ってみてはどうかという内容だった。たしかに興味深いものがいくつかあったが、時間にそれほど余裕がなかったので、いちばん気になった展示をひとつだけ観て帰ることにした。タイトルは「札幌デザイン開拓使」。札幌のデザインの歴史をグラフィックデザイン中心に展示しているようだ。翌日、この展示を観たことで、ぼくにはまた大きな気づきがあった。なによりも、もっと早くに知っていれば、この展示だけでなく『札幌国際芸術祭』全体を観られたのにと悔しい気持ちになった。

デザイン展は赤星の歴史から始まっていた。展示全体のシンボルには北海道開拓使の旗にある赤い五陵星ではなく、赤い七陵星が使われている。赤い五陵星は北極星をモチーフにして、1872年に開拓使御用掛の蝦子末次郎が考案したものだ。対して七陵星は、同じ年に開拓長官の黒田清隆が提案した「開拓使の旗章」で、こちらは政府に却下され使われることはなかったという。やがて開拓使の廃止などで紺地に赤の五陵星は使われなくなっていった。そして開道百年を前に新しい道旗をつくることになり、デザインコンペで採用されたのは栗谷川健一の作品だった。いま北海道庁の屋根などにはためいている旗だ。それは紺地に白く縁取りされた赤い七陵星である。栗谷川健一という名前を、ぼくはこの展示ではじめて聞いた。

札幌オリンピック関連のデザインもいろいろと展示されていた。1972年当時、ぼくは高校生だった。活躍した選手たちの名前はいまでもはっきりと憶えている。女子フィギュアスケートで「氷上の妖精」として人気を博したアメリカのジャネット・リン、男子スピートスケートで三つの金メダルを獲ったオランダのアルト・シェンク。男子回転で優勝したスペインのフランシスコ・フェルナンデス・オチョアなどなど。そして70メートル級ジャンプで金銀銅を独占した笠谷幸生と金野昭次と青地清二。3人が表彰台で手を振る写真は、数々の週刊誌やオリンピックを特集した雑誌の表紙を飾ったが、たまたま至近距離でそれを見ていた高校の同級生が写っていて、彼はそれからしばらくの間、学内でヒーロー扱いされた。

でも、ポスターなどのグラフィックデザインを誰が手がけたかというのは、田舎町の高校生には関心外のことだ。展示物のキャプションを読み、いまになってその顔ぶれの豪華さを知り興奮した。ポスターは亀倉雄策、河野鷹思、細谷巖。大会のロゴは永井一正。メダルは表が八木一夫で裏が田中一光。そして聖火台と聖火リレーのトーチが柳宗理のデザインだったなんてと、心の中で大声で叫んだ。

札幌オリンピックによって、札幌の街は大きく変わったと思う。オリンピックに向けて地下鉄が開業したり、いろいろな都市計画が策定されたことと想像する。会場にはオリンピックを招致するためにデザインされたポスターも展示されていた。その作者も栗谷川健一だった。デザインだけではなく絵もすべて彼の手によるものだ。1枚だけ原画も展示されていた。「スキーの源流」と題されたその絵には、札幌市の鳥瞰図を遠景にして、その前に立つかんじきを履いて弓を持つアイヌの男性が描かれている。他に当時の国鉄の要請によって制作された数々の観光ポスターもあった。もしかしたら見たことがあるかもしれないと思ったが、たぶんそれはない。ないけれどそう思ってしまうのは、栗谷川が描く北海道の情景が誰の胸の中にもある北海道のイメージを、あるいはまだ見たことのない土地に対する憧れを抱かせるイメージを、1枚のポスターに表現しきっているからだろう。

栗谷川のデザインしたポスターの中に北海道百年の記念行事を告知するものがあった。1968年を開道百年の年と位置付けて各種の行事があった。ポスターには彼自身がデザインした新しい北海道旗も描かれている。それを眺めていて、中学生の時に授業の一環で「北海道大博覧会」を見学に行ったことを思い出した。会場は真駒内にあったはずだ。ぼくはそこで生まれてはじめて「電卓」というものを見て、未来がすぐそこまで来ているのだと驚いたのだった。同時に、中学生だった時点で祝っていたのが、わずか「100年」だったのだということに思い至る。自分の歴史に対する関心の薄さは、ここに由来しているのではないだろうか。歴史の授業をさぼってきたツケを、道産子だからという運命に払わせるのはどうかと思うけれども、何百年も遡った上で現在を把握するには、北海道以外の土地に足を運んだり、先住民の歴史や文化をもっと掘り下げていく必要があるのかもしれないとあらためて感じた。

東京に戻ってすぐに栗谷川健一の本を手に入れた。彼はぼくが考えていた以上にはるかに有名な、そして国際的にも評価の高いポスター作家だった。経歴には1911年、岩見沢の生まれと書いてある(没年は1999年)。ぼくの郷里の近くだ。彼の祖父は石川県の能登半島から北海道に入植した開拓農家だったそうだ。ぼくも祖父まで遡れば香川県にたどりつく。

本の中でもっとも印象に残っている栗谷川健一の言葉を以下に引用する。

「私はアイヌの文化の高さを感じているし、弓一つ見ても素晴らしい作品だと思う。彼らが、かつて山野を駆けめぐった姿には人間としてのあこがれを持ちます。しかし、それを私が観光の材料にしたこともまた事実なんですね。この問題は今後真剣に掘り下げて考えたいと思っています」(栗谷川健一、聞き手・竹岡和田男「宣伝美術60年」、『私の中の歴史6』所蔵/初出『北海道新聞』1983年4月8日)

ぼくの生まれた町である夕張は「ユーパロ」というアイヌ語が語源なのだと、子供の頃に習った。自分が育った家の前を流れていた川はシホロカベツという名前だった。いろんなことを知れば知るほど、いますぐにでもまた北海道へ行きたくなる。

北海道らしさってなんだろう? 道産子マインドのルーツを探す旅 岡本仁

岡本 仁

1954年、北海道夕張市生まれ。大学卒業後テレビ局勤務を経てマガジンハウスに入社。『ブルータス』『リラックス』『クウネル』などの編集に携わった後に退社。2009年よりランドスケーププロダクツにてプランニングや編集を担当。著書に『今日の買い物』『続・今日の買い物』(ともにプチグラパブリッシング刊、岡本敬子との共著)、『ぼくの鹿児島案内』『続・ぼくの鹿児島案内』『ぼくの香川案内』(すべてランドスケーププロダクツ刊)、『果てしのない本の話』(本の雑誌社刊)、『ぼくらの岡山案内』(ランドスケーププロダクツ刊、坂口修一郎との共著)などがある。雑誌『暮しの手帖」『& Premium』でエッセイを連載中。

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